2018年9月14日金曜日

イエズス会が二十世紀の共産主義政党と性格、手法において一致していることは おどろくほどである。

イエズス会が二十世紀の共産主義政党と性格、手法において一致していることは
おどろくほどである。実現すべき目的の超越的絶対性、組織の大目的への献身がある


2018年9月13日 木曜日

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成30年(2018年)9月13日

 信長暗殺の背後にキリスト教団がいたという陰謀説は潰える
  イエズス会は軍事組織であり、マルクス主義前衛党に、いやISに似ている

渡辺京二『バテレンンの世紀』(新潮社) 
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 なにしろ分厚い。読むのに四日を費やしたが、渡辺京二は、これを書くに十年の歳月をかけた(『選択』に十年余連載)。だから四日で読了しては申し訳ない気にもなる。
 もやもやと濃霧の状況だったが、展望台にたつと雲海が晴れて、全体の景色がながめられるダイナミックな伴天連時代の通史である。
これまで切支丹伴天連の研究は幾十、いや幾百もの書物が出たが、戦後の論壇の研究成果が大きく進展したのは、ポルトガル、スペイン、そして英国で貴重な文献が見つかり、これら第一級の新資料から、総合的な展望をもとに、あの切支丹伴天連の活躍した全貌がはっきりと見通せるようになったことだ。

ポルトガルとスペインは世界を二分化し、世界の未開拓な国々を植民地として、土地の人々は奴隷として酷使することが神の命じた使命でもあるという狂信的ドグマに染まっていた。
イエズス会はスペインのバスク地方からおこった。ザビエルは創始者の一人だった。
渡辺は大航海時代から世界を眺めやる文脈のなかで日本における伴天連の活躍をザビエルの訪日前後から克明に活写する。
ザビエルの布教に最初に洗礼をうけたのは北九州の覇者、大友宗麟だった。彼は島津との死闘を繰り広げながらも、日向にあっては神社仏閣を徹底的に破壊し、仏像、教典も焼却した。このため家臣団からの信頼を失い、やがて没落してゆく。
 信長前史、はやくも宣教師は日本に入り、薩摩、日向、臼杵、山口での布教が拡大したが、最終的に伴天連教団は京を狙っていた。
 京を制圧しつつあった信長が布教を許し、秀吉も切支丹伴天連の活動を奨励した時期がある。
といっても、信長は火薬と鉄砲、そして既存の宗教勢力へのバランスを計測し、伴天連を利用した。
秀吉は、伴天連がもたらす物資、交易の魅力が主で、次第にかれらの侵略意図が明確になると禁教、伴天連追放に踏み切る。
のちに天下人となる家康は新興勢力として台頭してきたオランダと英国に注目して、むしろ活用した。家康は交易を許したが、布教は禁止した。家光の代ではオランダを除いて、完全に彼らを駆逐した(筈だった)。
 ところが、禁教後も宣教師の日本潜入は絶えず、とくに長崎から天草にかけて潜伏し、伝染病が蔓延したように信者が増えたのである。一時は37万人の信者を誇ったという。


 ▲信徒拡大の鍵は大名にあり、同宿を駆使した

なぜ日本の国柄に適合しないキリスト教が増えたか。
 応仁の乱からアナーキーな状態に陥っていた日本では神にすがろうとする末期的な社会現象が重なり、新興宗教に名状しがたい魅力があったからである。ひとびとは切支丹を仏教のあたらしい宗派の誕生としてしか認識しておらず、その教義の一神教の絶対性についての理解に欠けた。
 天草四郎は、小西残党の武士らが担ぎ出してカリスマとしたほどに、霊力をもつ少年だった。地方の一揆程度とみた幕府は、ささやかな部隊を鎮圧に宛てたが、どっこい反乱軍は強かった。

 ISの戦術をご記憶だろう。
 住民を巻き込み、楯とする。仏教徒の住民が、キリスト教にならなければ殺すと脅され、原城の籠城戦において城内に閉じこめられた。その数およそ18000名となる。
 本書はともかく通史、物語の語り部として成功しているが、天皇、朝廷の動きが皆無であり、総合性にややかけるのが難である。
 切支丹伴天連が掲げたのは「天地創造の絶対神」だ。合理的解釈から逸脱した独善的ドグマで、日本の神仏は「その被造物にすぎない」と宣教師が主張し、また「日本の神仏が真の神の資格を持たず、悪魔のまどわし」(441p)と総括した。
このため、最初は現世的な御利益から入信した信者等も、急速に離れていった。

殉教のために密入国した宣教師がいたが、当時の厳密な監視態勢の下ではすぐに発見された。

 本書を通じてハタと膝を打った箇所が幾つかある。
 第一にイエズス会は布教の対象を藩主、武士という上層部におき、また日本語のハンディを乗り越えるために聡明で語学が達者な日本人信者を多用した。実際の布教は、この日本人信者(同宿という)だった。KGBが当該国において『影響力のある代理人』を重宝したように。
 最初の信者は、貧困な人々が目立ち、高層へ行くほどに日本では知識階級が怪しいドグマをはねつける知見があったのだ。

 第二にキリシタン大名が輩出したが、それぞれの武将には信仰への温度差があり、棄教に応じたのは黒田官兵衛、小西行長ら。棄教を首肯しなかったのは高山右近ら少数がいた。また宗教論争を通じて、キリスト教の説く教理が、日本の国柄には適合しないことをほとんどの日本人指導者は認識できていた。

 第三に同様にしてイエズス会宣教師のなかでも、GHQに「ウィークジャパン派」と「ストロングジャパン派」が対立したように、布教の遣り方や交易手段を巡って鋭角的な内部対立があった。
日本侵略を強硬に主張したのはコエリョであり、この時点で反対したのはオルガンディーノだった。フロイスはどちらかと言えば中立的だったが、のちに侵略論に傾いた。
 コエリョは「当時マカオにいたヴァリニャーノのもとに使者を派遣して、彼が来日する際二百名の軍隊を伴うべく要請すること、さらに彼からスペイン国王、インド副王、フィリピン総督に軍事援助を要請してもらう」と協議した。
 事実、「コエリョはバテレンン追放令がでるや、有馬晴信ら切支丹領主に、結束して秀吉に敵対するように働きかけ、資金と武器の供与を約束し、実際に銃器、弾薬を買い入れた」(225p)。


 ▲家康が怖れたのは伴天連の軍事力ではなく文化的侵略だった
 
 信者からも告発がでた。破天荒な日本人信者(トマス荒木)が単身ローマまで行って多くを学んだが、帰国途次のマカオで、イエズス会宣教師等が「日本征服を企てるような托鉢修道士たちが国王に働きかけた」事実を掴んだ。
まさに「植民列強と結びついてその国家事業の一環として布教をすすめてきた修道会に対する疑問」が拡がった(321p)
 
ヴァリニャーノとて、天正少年使節を欧州へおくる段取りを組んだが、『天正遣欧使節記』はヴァリニャーノの作文であり、フェイク文書だった。
 伴天連の機密任務である侵略の意図を、はやくから秀吉も掴んでいた。ただ秀吉の老衰、耄碌がはげしく禁教と布教の狭間を揺れ動き、朝令暮改の特質があった。
「家康はポルトガル、スペインの侵略性も、宣教師達の役割もよく承知していたが、現実の武力侵略はまったく恐れていなかった。彼が怖れたのはいわば文化的侵略であって、キリスト教が日本を乗っ取るのではないかと懸念した」(315p)

 第四に禁教後も、宣教師の潜入が続いたことは述べたが、、とくに天草にもたらされた印刷機によってキリスト啓蒙書が印刷され、おびただしく出回っていたことである。
所謂「天草四郎の反乱」と呼ばれる切支丹の一揆とて、直線的に?川政権の転覆を狙った国家への叛逆ではなく、百姓と小西残党の武士団と、反乱の題目に必要なキリスト教の信者とが徒党を組んだ、農民一揆に近いものだった。
武士は戦争になれて、武装しており大砲や鉄砲をそなえていたため、背後にポルトガルがいるという印象を与えた。だから幕府はオランダが火力攻撃の支援を求めたときに応諾した。
 
 本書で渡辺京二が言いたいのは次の言葉だろう。
 「イエズス会が二十世紀の共産主義政党と性格、手法において一致していることはおどろくほどである。実現すべき目的の超越的絶対性、組織の大目的への献身、そのための自己改造、目的のためには強弁も嘘も辞さぬ点において、イエズス会は共産主義前衛党のまぎれもない先蹤(せんしょう)といわねばならぬ」(189p)。

 これは日本が欧洲の異教との初めての接触=「ファーストコンタクト」だった。『セコンドコンタクト』が幕末の異国船だった。

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