2015年11月30日月曜日

つまり、縄文人から弥生人への変化などは、なかったのです

ねずさんのひとりごとより
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大阪には古墳が多く、また工事現場から古代遺跡が見つかることも多い。それでいたるところにそれらの資料館があり出土品が展示されている。
そこで、例えば土器について、解説には、渡来人が作ったと書いてある。建築の遺構についても、渡来人が作ったと記されている。
日本人は、京都に行けば、平安時代から1200年続く日本社会を目の当たりにすることができる。
そこに存在する、日本人が普通に接している器や建物には、渡来人の影すら見えない。全て日本人が作り出したものだ。
言葉も例えば渡来人が朝鮮半島から来たとされ、大活躍しているのに、日本語は朝鮮語とは全く違った言葉である。
秀吉の朝鮮征伐後に陶磁器の作成技術が朝鮮から伝えられたと言われている。しかし、半島からは、日本に在る連房式登り窯が発見されていないのだ。
であるにも関わらず、現在の日本人が接する古代は、最初に記したように、渡来人だらけなのである。
ーー
この調子だと、2000年後に、もし記録が消失していたとすれば、恐らく、江戸から明治への変化に対しても渡来人説が出されるだろう。
しかし、明治を作ったのは、江戸を作った人々と同じ人たちだったのである。
もう古代の、優れたものや画期的なものに対して説明できない時に渡来人説を用いるのは、止めるべきだろう。
ーー
しかし日本には、どうしても渡来人説を採用しなければならない人々が、大学や日教組の中にいるらしいのだ。
つまり、渡来人説には作為があると書いている人がいるのでお目に掛ける。
ーー以下「ねずブログ5/6」より抜粋編集qazx
「縄文人と弥生人」の頭骨の比較写真が、なんと偽造(変造)だというのです。
この話は、先日行われた日本史検定講座における長浜浩明先生の講義で、私も初めて知ってびっくりしました。
弥生人の本物の写真を見ると、それを線対称にして、張り合わせ幅をわざと狭く、つまり細長に見えるようにしていることがわかります。
古代史の分野では、戦後左翼系の学者たちによって、こうした改ざんや証拠の捏造が、繰り返されてきたのです。
ーー
それでは、なぜ、このような日本の古代史に関するデータの改ざんや捏造が行われ続けてきたのでしょうか。
それは戦後の占領軍総司令部GHQの「思想」に基づく検閲があり、その「思想」に沿って改ざんやねつ造が行われたからだと言うことになります。
その「思想」とは、以下のようなものでした。
1、日本人は、混血でなければならない
2、日本人は外来種によって征服され成立したものでなければならない
3、日本には固有の文化はない
検閲を行い、この「思想」に反して、日本の古代から中世、近世、近現代へと続く歴史を、資料に基づいて研究していた歴史学者たちを大学から追放したのです。
ーー
まず日本書紀を研究し、神代からの天皇の歴史をまともに研究する教授たちを、ことごとく追放してしまいました。
生き残った教授たちは、一斉に、戦前までの日本史を頭から否定する学説を発表しました。
なかでも有名なのが、東京大学の江上波夫(なみお)名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」です。「思想」を忠実になぞっています。
長浜先生によると、あれは江上教授の「私は日本書紀を否定してますから、どうかクビにしないでください」というアピールに他ならないとのことです。
「騎馬民族征服王朝説」は、昭和23年に発表されたのですが、いまも強固に歴史学会、人類史学会、考古学会、古文学会等に、根強く残っています。
ーー「騎馬民族征服王朝説」とは
かつて日本列島には、鹿の毛皮をまとっただけの、ほとんど原始人のようなオクレタ生活をしていた縄文人たちが住んでいた。
そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。
弥生人豪族たちも、文化程度は低く古墳などの土盛りをして、勢力を誇示していた。7世紀になって、朝鮮半島からの渡来人が、日本人に箸の使い方から文字、仏教などを教えた。
渡来人によって文明化した日本人が、明治以降、その朝鮮半島を征服し、若い女性をことごとく性奴隷にしたあげく、大陸においても残虐な人殺しをし続けた。
そうした日本人のもとになっているのが、弥生時代に渡来し、縄文人の男たちを皆殺しにし、縄文人の女たちを強姦し抜いた血に基づくものなのである。
ーーと続いて、ぐるりとまわって現代と古代がつながるわけです。
この話は、「思想」に沿った作文にすぎません。と言いますのも、この「思想」に反する実証学的な証拠が、数多く提示されているからです。
しかし「思想」に反する実証学的な証拠は、ことごとく証拠として採用されることはなかった。
完璧な証拠をそろえても、学会からは排除され、あるいは無視され、決して日の目をみることはなかったのです。
逆に、この「思想」に沿う内容であれば証拠が全くなくても、ニュースになり、書かれた本は文科省や教育委員会の推薦をもらえたのです。
イカサマ学者や左翼系出版社は、この仕組みによって、日本社会を、今も「思想」的に支配しているのです。
ーー
東京書籍の小学校歴史教科書の代表執筆者・佐々木毅は、元東京大学教授で、その後、東大の学長、そして学習院大学・教授になって、いまは学士院の会員となっています。
この人たちが書いた教科書をみると、この「思想」がそっくり書かれています。
そしてこの「思想」が子供たちに「事実」として刷り込まれています。実に、とんでもない話です。
ーー
では、実際の日本人の姿はどうだったのでしょうか。
いまや多数の縄文時代の遺跡から、例えば9500年前の上野原遺跡や、5500年前の三内丸山遺跡などから、当時、すでにきわめて高い文明文化が日本に存在していたことが、明確に確認されています。
鳥浜貝塚からは、縄文人たちが、布製の衣類を着ていたことが、確認されています。
もっというなら、縄文式土器は、壁面には縄目の模様があるという特徴があるわけですけれど、縄というのは、編んで作るものです。
編むという技術があるなら、その技術を用いて布をつくるのは、当然にあり得ることで、実際、縄文式土器というのは、必ずといって良いほど、底の部分に布の模様が遺っています。
これが何を意味しているかというと、縄文時代には、土器を作るに際して、土器の下に布を敷いていた、ということです。
縄を編み、土器を作るに際しても下に布を敷いていたのなら、その布を身につけなかったと考える方が、そもそもどうかしています。
ーー
そもそも狩猟採取生活の古代において、男たちが狩りにでかけるに際しては、男性はフリフリ状態では、大事なところを怪我してしまいます。
ですから、かならずフンドシやパンツを穿いていだであろうことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえにわかることです。
ーー
日本では、3万年前の世界最古の磨製石器が発見されています。そして16500年前の世界最古の土器が確認されています。
そしてこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行きました。
縄文時代の後期になりますと、あの大阪万博の太陽の塔のモチーフになったハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっていました。
当時の世界にあっては、まさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていたことが、考古学的に実証されているのです。
ーー
では、朝鮮半島はどうだったのでしょう。
いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には12000年前から5000年前の7千年間)もの間、人類の遺跡が発見できないのです。
ということは、その間、朝鮮半島には人が住んでいなかった、ということです。
その後、北朝鮮辺りに人が住むようになったのですが、この種族を、古代支那社会では「濊族(わいぞく)」と呼びました。
古代支那人たちは、周辺の種族たちを蔑称で表しています。日本は倭で、これは背の低い人という意味です。
その中で古代支那人から、糞尿を意味する「濊」という字で呼ばれたのは、古代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。
「濊」は「汚」という漢字と結びついて「汚濊」となりますが、どれだけ不潔な民族だったかということです。
不潔は、同時に文明的に未開であることを意味します。
ーー
その未開の朝鮮半島から、文明が日本に伝えられたと彼らは主張しているのです。ばかばかしいにもほどがあるというものです。
ーー
さらに、いまから約6500年前の朝寝鼻貝塚から、大量の植物性オパールが見つかっています。
植物性オパールというのは、植物が土に含まれる珪素(けいそ)を吸収し、その硅素が葉脈に沿って残留しオパールとなったものです。
植物性オパールは、葉脈の形状を反映することから、その形から植物が特定できます。
オパールは、何千年経っても壊れないし、焼いても形が残るため、土中や土器の破片に含まれる植物性オパールを研究することで、当時、どのような植物が栽培されていたかがわかるわけです。
そして、日本で6500年前の遺跡から、大量の「稲の植物性オパール」が見つかった。
ということは、少なくとも6500年前から稲作が行われていた、ということです。
しかしその時期の朝鮮半島には、まだ人が住んでいません。
さらにいうならば、朝鮮半島で稲作がはじまったという痕跡は、5世紀頃のものです。つまりいまから1500年くらい前のものです。
証拠からすると、日本の稲作が朝鮮半島から渡来したことなどありえないことに成ります。
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いまどきの左巻きの学者たちは、もう稲作が朝鮮半島由来だと主張するとバカにされるのを知っています。
それで、稲作は、いまから7千年前に、支那の上海辺りの河姆渡遺跡(かぼといせき)で作られ、それが日本に伝えられたと言うのです。
彼らにとっては、日本人が独自に稲作技術を開発していてはならないのです。
山東半島、遼東半島を経由して日本にもたらされたと。しかし、そもそも山東半島や遼東半島は、地形が険しすぎ、水利もありません。
稲作ができない、つまり、日本の稲作が支那→山東半島→遼東半島→日本という事実も、根拠がなかったということです。
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河姆渡遺跡の稲作について、さらにいえば、日本で6500年前の稲作の痕跡が見つかったという発表がなされてからすぐに、発表されたものなのです。
しかし、河姆渡遺跡の稲の痕跡が、7000年前のものだという根拠については、誰も検証していません。
支那当局が、7000年前のものだと主張しているだけなのです。
ーー
それでは支那5千年の歴史はどうでしょう。
皇紀2600年当時、支那人留学生たちが、「とりあえずその倍くらい言っておこう」とばかり、いきなり支那5千年の歴史と言い出しただけです。
根拠などありません。そもそも支那と言うのは、言葉も習慣も伝統も違う人たちの集団に過ぎず、しかもどの集団も歴史を持たないのに、一体何をもって支那の歴史と言えばよいのでしょう。
例えば支那は1912年まで清国でした。ところで清国の歴史は、女真族の歴史なのでしょうか、それとも支那の歴史になるのでしょうか。
後に、この支那5千年は、戦後の高度成長期に、さすがに倍だとすぐにバレるからと、「おかずは桃屋の花らっきょ」のCMで、支那4千年の歴史に言い換えられました。
支那人の主張には根拠がありません。稲作が支那から渡来したというのも、これは根拠の確かな学説ではないのです。
ーー
日本列島に人がやって来たのは、いまから約34万年前であったろうといわれています。
人類が猿から分化したのはいまから約700万年前のことで、そこから人類は、猿人、原人、旧人と変化しました。
いまの人類を「現生人類(ホモサピエンス)」といいますが、これが誕生したのが、いまから約15万年前で、旧人等と現生人類には、交配はなかったとされています。
猿人、原人、旧人たちと現生人類の間には、遺伝子に差異があり、現生人類は旧人たちの子孫ではありません。
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また日本の鳥浜貝塚では、漆塗りの櫛(クシ)は発見されているのに、武具は全く発見されていないのです。
遺跡から武器が発見されない時代が日本では15千年近くも続いています。
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現世人類が最初に誕生したのは、15万年前のアフリカ中央部です。それが10万年前には中東あたりに移住し、そこから6万年前にユーラシア大陸を四方に散りました。
それが日本列島に北と南からやってきたのは、いまから43万年前とされています。
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ちなみに日本では、約12万年前の石器が発見されていますが、これが新人類のものなのか、旧人類のものなのかはわかっていません。
けれどもし、それが新人類(ホモサピエンス)のものであったとしたら、これは世界の人類史を揺るがしかねない大事件となります。
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北のモンゴル系と、南からのフィリピン・マレー系の人々が、日本列島にやってきた。
このことは、日本人の遺伝子が、それぞれ北と南の特徴を半分ずつもっていることからも、確認することができます。
もしこれが、一方側に偏っていると、それは大陸と同じように、民族的な戦闘があったということを意味します。
Y遺伝子が、男たちが殺されることによって、次第に絶えてしまうからです。他民族の痕跡は女性から子へと伝わるミトコンドリアDNAの中にしか残りません。
ーー
支那では、およそ4千年前の黄河文明の前に、モンゴロイドによる長江文明(およそ6千年前)が栄えたことが確認されています。
ところが後になって、北の黄河の流域に、白人系のコーカソイドたちがやってきました。おそらくは大型動物を追ってきたのだろうと言われています。
両者が人種的に異なっていたことは、遺跡から発掘された人骨や住居の形状の違いなどから確認されています。
コーカソイドたちは大型動物を狩りますから、手に武器を持っています。一方、長江のモンゴロイドたちは、農耕ですから、武器を持っていません。
恐らくコーカソイドたちが、モンゴロイドを殺し、食料や女を奪ったのでしょう。コーカソイドに戦いを挑んだモンゴロイドは、生残ったはずです。
こうして約2千年の時が流れて、長江人たちは、黄河人によって政治的軍事的に完全に支配されたと考えられるのです。
けれど、人口はモンゴロイドのほうが圧倒的に多いわけです。そのため、彼らの外見上の特徴は、モンゴロイド系になりました。
ーー
その後も白人系コーカソイドは、陸続きですから、数多く支那に入り込みました。
2千年前、つまり三国志の時代、人骨は、男女ともにコーカソイドの特徴が多くみられるそうです。
考えてみれば、関羽も張飛も、外見上の特徴は、モンゴロイドというよりも、関羽は大柄で髭が長くて顔の堀が深い。これはバイキングなどにみられる人種的特徴です。
張飛は、丸ぽちゃで大柄で、もじゃもじゃ髭です。これは矮躯でありながら屈強、豊かな髭を生やしているという西洋の童話に出てくる小人(ドアーフ)にみられる人種的特徴です。
要するに、紀元200年頃の支那には、白人系の人種的特徴を示す者たちが、まだたくさんいた、ということになります。
ーー
ところが現代支那人にはコーカソイド系のY遺伝子がまったく発見できません。
つまり、コーカソイド系の男子は、繰り返された戦乱の結果、みんな死に絶えたわけです。
古来大陸では、殺し合いで負ければ男は奴隷にされるか皆殺し、女たちは陵辱されて子を産まされました。
それが、遺伝子上の変化となってあらわれているわけです。
ーー
一方日本人はどうでしょうか。
43万年前に北と南から異なる民族がやってきて、その遺伝子が、男にも女にも、互いにほぼ均等に出現します。
これが何を意味しているかといえば、明らかに、双方が共存した、ということです。日本人は、4万年前から、共存と共栄の道を選択してきたのです。
では、北と南のそれぞれからやってきた日本人は、どちらが先に日本列島にやってきたのでしょうか。それは、北方系であったということです。
なぜそのようにいえるかといえば、答えは言語にあります。日本語の語順が北のモンゴル語系だからで、単語は、南方系です。
つまり、北系の語族の特徴の上に、南方系の単語が取り入れられて、日本語ができたということです。
そして両者の言語は、34万年という途方もない長い期間を経て混じり合い、日本語になったことに成ります。
ーー
私は縄文中期には、すでに日本語が確立されていたであろうとみています。
なぜこうしたことがいえるかと言いますと、言語学的にそれとそっくり同じことが、実は朝鮮半島にも起きているからです。
朝鮮半島には、もともと倭人たちが入植し、いまの韓国の南半分は倭国です。
ところがそこに、武器を持った支那系や、北方系がやってきました。
最終的に半島の倭人は、かつて満州から撤退して人々が日本に帰って来たのと同様に、朝鮮半島から撤退し、日本列島にもどってきました。
その結果、朝鮮語は、語順は日本語であり、単語は支那語から成り立っています。これは、古代朝鮮語なるものがなかったことを意味します。
古代朝鮮語があったのなら、そしてそこに高い朝鮮文明があったのなら、民族の国語である「訓読み」が必ずあるはずです。
ところが、長浜先生から教えていただいたことなのですが、朝鮮語には、「訓読み」が無いのです。全部、「音読み」なのです。
ーー
単語が全部音読みであるということは、少なくとも日本語の語順で文化を営んでいた古代朝鮮人が、異民族によって征服されたということを意味しているのです。
ーー
朝鮮人たちは、「日本人に文明を教えてやった」と主張しています。
2500年ほど前に、稲作文化を持つ弥生人たちが朝鮮半島からやってきた。そして縄文人たちと入れ替わった、と。
しかし、朝鮮語から推測される事実は、どうやら、逆に日本人から教えられた文明を異民族に征服されることで破壊されてしまったようなのです。
ーー
そもそも稲作は、稲を栽培して食料を得るものです。
その稲は、雨期と乾期がある地帯の熱帯性植物です。
けれど日本は雨期や乾期のない温帯です。そこで、雨期と乾期を人工的に作り出した。それが、水田です。
つまり、春、田に水を引いて、水田にして雨期を演出し、田植えをする。秋には、田から水を抜き乾期を演出し、乾田にして、収穫する。
これを行うためには、田の水位を変える灌漑技術が必要です。地面の高さを変えるのは難しいので、水位を変えたのです。
そのためには、川の上流から、土地の高さに応じて、水を引いてくる必要があり、また、田が水浸しにならないように、強固な堤防を作る必要もあります。
また水田は、水深が同じつまり水平になっていなければなりません。そのためには、測量の技術が必要です。
安全に水を引き、安全に乾田にすること、そして田の水平を保つこと。
これらを工夫し実現するためには、数限りない試行錯誤の蓄積がなければなりません。
そしてまた、稲がどういう植物か、つまり熱帯地方には雨期と乾期があるということを、知識として持っていなければなりません。
考えてみると、水田はものすごい農業技術革新であったことが分かります。
ーー
そしてそういうことは、みんなが知恵を出し合ってはじめてなし得ることです。知識を独り占めしたり、奪略や殺戮を繰り返していれば、絶対になし得ないでしょう。
日本が、水田を作ったのは、縄文時代です。弥生時代の4千年も前から、これをやっていたわけです。
当時の朝鮮半島には、人の痕跡さえなかった時に日本では、水田耕作が行われていたのです。
ーー
それでは、弥生人というのは何なのでしょうか。
冒頭「思想」によって、学者たちが、わざわざ頭骨が細長い弥生人を捏造したことをお示ししました。
「思想」では、異民族である弥生人が半島からやってきて縄文人を滅ぼしたことに成っています。
しかしそうではないのです。「思想」はでっち上げられたものなのです。
ーー
もともとの弥生人の骨格は、縄文人たちにもまったく同じようにみられる特徴しか持っていません。
そもそも一重まぶたや二重まぶた、高い鼻や低い鼻、背の高い低いから頭骨の縦長、横広といった特徴は、縄文以前からありました。
日本人が北方系と南方系の血が入り交じったことによって、縄文時代には既に出来上がっていたものに他なりません。
藤岡信勝先生曰く、「縄文人と弥生人を区別するということは、鎌倉時代に住んでいた人を鎌倉人、江戸時代の日本人を江戸人、明治時代の日本人を明治人と呼ぶことととなんら変わりがない」と。
つまり、縄文人も、弥生人も、同じく太古の昔から日本列島に住んでいた日本人でしかないのです。
ーー
なるほど、弥生時代になると、日本人は武器を持ち始めました。その時代になると、遺跡からたくさんの槍や弓、刀剣などが出土するのです。
そして、土器は、縄文時代のような装飾性の高い土器ではなく、きわめて簡素な土器へと変化しています。
なぜそうなったか。その最大の理由は、縄文時代の終わり頃から、日本人が朝鮮半島に進出しはじめたことです。
ーー
日本列島の中で生活している分には、日本人は武器など必要ありませんでした。
このことは江戸時代から明治、大正、昭和初期にかけて、日本人の家屋に鍵などというものがなかったのと同じです。
泥棒がいなければ、鍵など必要ないのです。同様に、襲う者がいなければ、武器など必要ないのです。
ところが朝鮮半島は、大陸と陸続きです。
高い文明を持った日本は、大陸(支那)等との交易も行いますが、そこには濊族もいるわけです。
彼らは、倭人たちの集落を襲い、食べ物を奪い、男たちを殺し、女たちを陵辱します。そうなれば、倭人たちも、いきおい武装しなければなりません。
倭人たちの進出によって半文明化された朝鮮半島からは、日本本土にも、濊族などの外来人たちがやってきます。
数はごく少数ですが、中には、福岡一家惨殺事件や、女子高生コンクリート詰め殺人事件のような、むごい事件を起こす悪者もいます。
ーー
そしてそういう悪者たちは、悪さをしてはあちこちを旅しますから、いきおい日本列島の中も、物騒な情況になってきます。
もし、おかしな連中がやってきたら、戦わなければなりません。そのためには武器が必要だし、女たちもすぐに逃げ出せるように、服装も簡素になります。食器類も簡素になる。
低い温度で、長時間賭けて焼いていた土器(食器)も、できるだけ短時間で焼くために火の温度をあげ、焼き上がりが早くなるように、食器類も薄くなります。
こうして、生活の道具類が大きく変化したのが、弥生時代であった、ということです。
ーー
つまり、縄文人から弥生人への変化などは、なかったのです。
縄文人も弥生人も、ひとしく日本人であり、ただ違っているのは、弥生人が朝鮮半島に進出したことです。
そして明らかに文明度の低い野蛮人たちと接することになった。
その結果、日本人は、武装したり、食器を簡素なものにしたりする必要が生まれたということにすぎないのです。
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縄文時代の日本人も、現代の日本人も、遺伝子は変化していないのです。つまり弥生人によって、縄文人が駆逐されたというのは、事実ではありません。
ーー
そもそも朝鮮半島からススンダ文明がやってきたと言いますが、それは何のことを言っているのでしょうか。
仏教伝来のことでしょうか。
インド発生の仏教は、支那で漢字化され、そのまま日本に伝わってきています。朝鮮人がそれに何かを加えたのなら、半島経由と言えるでしょう。
何も加えていないのなら、それはただ通過しただけです。
そもそも仏教伝来は、百済の聖明王(聖王)が、西暦552年に日本の欽明天皇に仏像や経典を献上したという出来事をいいます。
当時、百済王は、その跡継ぎの王子を、日本に人質として差し出しています。
つまり、当時の百済は日本の属国だった。属国である以上、その土地の名産品を朝貢するのが筋です。
ところが百済には、名産、特産となるべきものが何もない。何もかもが、日本から教えられたことだったからです。
そこで、天皇への献上品として、聖明王が、苦肉の策として選んだのが、支那の特産である仏像と仏教教典だったのです。
逆にいえば、百済が、どれだけオクレタ国だったか、ということです。
ーー
では、漢字でしょうか。
漢字は、仏教とともに、日本に渡来しました。けれども、それよりも何千年も前から、日本は支那や渤海国等と交易をしています。
そこのことは黒曜石の分布で確認することができます。つまり、日本は、朝鮮から仏教教典の献上を受ける前から、漢字を知っていたといことです。
そうでなければ、仏教教典の献上を受けても、無価値です。
ーー
では、67世紀の日本に渡来したススンダ半島文化とは何なのでしょう。
建築技術、世界最古の木造建築物は日本の法隆寺五重塔です。
高麗人参、栽培されるようになったのは、徳川将軍吉宗の時代です。
キムチ、それが生まれたのは、大正時代です。
たぶん、書ける人はいないと思います。なぜなら、半島に文化など何もないからです。
ーー

日本人は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と、ずっと日本人のままなのです。