LGBTのことも、今後、自由闊達に議論していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するもの
言論と表現の自由が守られている日本では、LGBTのことも、今後、自由闊達に議論
していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するもの
私は杉田論文を読んで、前述のように杉田氏が、「少子化無策」に対して、あるいは、それへの支援に度が過ぎている行政や、それをアト押しするマスコミに対して激しい怒りを持っている人物だと思ったが、「LGBTへの差別主義者だ」とは思わなかった。
しかし、それは「百人いれば、百人の読み方がある」という通り、私だけの感じ方であり、人に強要するつもりも、同意を求めるつもりもない。それは、私の自由だからだ。言論と表現の自由が守られている日本では、自由闊達にLGBTのことも議論すればいいだけのことである。
だが、「これはLGBTへの差別だ」と声を上げ、その自由な言論空間を圧殺しようとする勢力に、新潮社は「白旗」を掲げてしまった。かつて、どんな圧力にも負けない毅然とした社風を誇った新潮社。その中で思いっきり仕事をさせてもらった私には、「なぜ新潮社はこうも見識を失ったのか」と思うだけである。
前回のブログでも書いたように、非難の風を真っ向から受けることを恐れない新潮社には、多くのエピソードがある。元週刊文春の名物編集長、花田紀凱氏と昨年12月に出した対談本『週刊文春と週刊新潮 闘うメディアの全内幕』(PHP新書)でも、そのうちのいくつかを紹介させてもらった。
1997年、神戸の酒鬼薔薇事件でFOCUSが犯人の少年の顔写真を掲載して新潮社が日本中からバッシングを受け、店頭からFOCUSばかりか、週刊新潮まですべて撤去されたことがある。
児童文学作家の灰谷健次郎氏をはじめ、作家が作品を新潮社から引き上げる騒動に発展し、社内でも、今回と同様、出版部の編集者を中心に「大批判が巻き起こった」ものである。
しかし、その頃の新潮社には、元週刊新潮編集長・山田彦彌氏、元FOCUS編集長・後藤章夫氏という編集出身の両常務がおり、外部の作家に動かされて安っぽい正義感を振りかざす編集者たちを二人が“一喝”して、いささかの揺らぎも外部に見せることはなかった。
言論や表現の自由は、それ自体が民主主義国家の「根本」であり、たとえ反対する人間や政治勢力が大きかろうと、それをどこまでも守らなければならないという「毅然とした姿勢」が会社に貫かれていたのである。
今回、社内で「外部に向かっての謝罪」を要求する編集者たちの突き上げを食らって、役員たちが右往左往し、ついには、「休刊」という恥ずべき手段をとったことに対して、私は、ただただ呆れるだけである。
新潮社の幹部の中には、自分で判断することもできず、外部の執筆者に相談して、「謝罪の上、新潮45を廃刊にするのが適当でしょう」とアドバイスされ、そのことをご丁寧にツイッターで「暴露」までされていた人がいた。
私が気になるのは、新潮社の社員がツイッターで、あるいは、外部のマスコミで、自らを「自分は差別主義者ではない」という安全地帯に置き、「言論・表現の自由」の重さも自覚しないまま、綺麗事(きれいごと)の発信や発言をつづけている人間がいることである。
彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
言論・表現の自由がいかに大切かということの本質を、18世紀に生きたこのヴォルテールは語っている。要は、たとえ自分の意見とは違っていても、その人の言論や思想は守らなければならないということであり、それは同時に、既述のように「百人いれば、百人の読み方がある」ということを認める、ということでもある。
言論と表現の自由が守られている日本では、LGBTのことも、今後、自由闊達に議論していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するような風潮をつくってしまった。
世の中に対して「超然」としていた新潮社がその矜持(きょうじ)を捨てた今、日本のジャーナリズムが、大いなる危機に立っていることを感じる。
嬉々として今回の事件を論評する新聞の社説や記事を読むと、暗澹(あんたん)とさせられる。しかし、圧力に屈しない毅然としたジャーナリズムの本来の道を、微力ではあるが、これからも進みたいし、守っていきたいと心から願う。
(私のコメント)
昨日も、「最近では大きなマスコミほど信用ができなくなってきている。大きなマスコミは様々な方面から圧力を受けて、どうにもならなくなっているようだ。「新潮45」という雑誌も廃刊になりましたが、LGBTについても自由な議論ができなくなってしまっているようだ。」と書きましたが、最近のマスコミはどうもおかしい。
言論の自由を、自ら放棄するような風潮が出来てしまったようだ。杉田氏の書いたことが間違っているのなら間違っていると反論すればいいだけの話であり、LGBTでもLGBに関しては、普通に結婚して子供がいる人もたくさんいる。程度問題であり、趣味的な個人的な問題である。
趣味的な問題や個人的な問題は、LGBTだけではなく、ロリコンだとかマザコンだとかいろいろありますが、非難するのも賞賛するのも自由であり、人格攻撃でなければ何の問題もない。レスビアンやゲイを売り物にした芸人さんもいるくらいであり、それを批判されたら名誉毀損で訴えたということも聞かない。
杉田氏が、批判されたのは右派の国会議員であるからだろう。政治家としてけしからんという程度なら予測されたことですが、それを擁護した「新潮45」が廃刊されるというのは行き過ぎだと思う。発行部数が減ったから廃刊すると言うのならわかりますが、出版社として言論の自由は守られるべきだ。
確かにLGBでも、結婚して子供がいる人もいるから「生産性がない」と言うのは言い過ぎだと思いますが、LGBTという個人的な問題に税金扱われることに対して批判したものらしい。私自身は、LGBTでもないが自分から言わなければわからない問題であり、わざわざカミングアウトする人もいる。
私自身も、適齢期になっても結婚しないのでホモだのゲイだのと陰では言われることもあったかもしれないが、大借金を抱えていては結婚したくても出来ないといえば誰もが納得してくれた。いつ自己破産するかもしれない身としては家族を犠牲にするわけには行かない。
門田氏は記事で、『よく出演させてもらっている読売テレビの「そこまで言って委員会」で、昨年、私は、少子化対策として「子育て支援金」を設け、「国は第1子に百万円、第2子には3百万円、第3子には1千万円を出すべきだ」と主張したことがある。』とかいている。
私も同じような意見を書いてきましたが、少子化問題は、国家戦略家にとっても重要問題であり、国防政策にも影響を与える問題だ。にもかかわらず国はこれらしい政策をおこなっていない。子ども手当の月額23000円も取り消されてしまった。金がないとうのなら高齢者向けの年金から回せばいい。
高齢者に年金を与えても彼らには「生産性がない」。20代や30代の若年夫婦に金を配れば少子化問題は解決するだろう。少なくとも経済的な理由での少子化問題は解決する。未婚の母にも金を配ればいいのではないだろうか。子供を3人育てれば毎年300万円貰えれば生活が成り立つ。