ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集qazx
2005年の夏休み国立科学博物館で「縄文対弥生ガチンコ対決」という催しものが開催されました。
ポスター写真では、現代人が、縄文人、弥生人に扮している。
服装や装飾品、髪型に、モデルの顔立ち体型まで、時代考証に基づいているとされた。
その縄文人は「染料で染められて、折柄の装飾まで施された布の衣装を着ている」のです。
そもそも縄文という名が示す通り、土器にも繊維の跡が付けられている。
実際に8千年くらい前の、たとえば鳥浜貝塚などから実際に布が出土しているわけです。
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日本列島の気温は、いまから6千年ほど前は、平均気温がいまより2度高かった。
年間平均気温が1度違うと青森が鹿児島の気候に、それが2度違うと大阪が、台湾の高雄市の気候になる。
つまり、西日本は熱帯、熱帯性気候だった。
そんな所で、鹿の皮を着ていたと主張するような日本考古学会の先生方は、特異な発想をする人たちだと言わざるを得ません。
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その後、10年経って、明らかに間違いとわかったこともあります。
ポスターの写真は「縄文人」と「弥生人」を、まったくの別人種のように捉えています。
縄文人は、背が低くて、二重のどんぐり眼で、瓜実顔のロシア顔、
弥生人は、背が高くて、一重のキツネ眼で、エラの張った朝鮮顔、
のモデルを起用しているわけです。
これは、それぞれの時代の遺跡から出土した人骨をもとに、考えられたものだと説明されていました。
日本列島では、弥生時代に、人種が入れ替わったと。
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ところが、「人種が入れ替わったとする説」は、学者がでっち上げたものでした。
根拠となった人骨は、「人種が入れ替わった」ことにしたい学者が捏造したものだった。
実は人種は変わっていなかった。
今や、その証拠が続々と出てきている。
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つまり日本列島に住んでいたのは、ずっと日本人であった。
縄文人と弥生人の違いは、江戸人と明治以降人の違いに過ぎなかったということが、現在では完全に立証されている。
江戸人と明治以降人を別人種と考えるなど、大間違いなわけです。
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それでは何故、弥生時代に、日本人の生活環境が変化したのか。
これは、鎖国していた江戸時代から明治の開国以後の変化に似ていると言えるでしょう。
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1万年以上の間、日本列島の住人は、狩猟と採集をし、鹿の毛皮を着て生活していた。
それが稲作が伝来して弥生時代になった、と戦後ずっと、つい最近まで、これが定説でした。
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しかし戦前戦中は違いました。
日本の歴史は、日本書紀に基いていましたから、日本では縄文草創期、あるいはもっとずっと古い時代から稲作が行われていたというのが、定説であった。
つまり、稲作伝来説というのも、戦後に作られた歴史だった。
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不安定な狩猟採集生活をしていた縄文人が、色鮮やかな装飾のある布を身に着けていた一方で、
稲作によって生活が豊かになったはずの弥生人が、服装が簡素で、装身具もあまり身に付けていないのは何故でしょうか。
弥生人の着衣には染色もなく、柄もありません。
弥生期に、服装が地味になるというのは、どういうことなのでしょうか。
こういう点が、稲作伝来説では、説明できない。
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ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
縄文時代草創期、二万年~九千年くらい前
縄文時代早期、九千年~六千年くらい前
縄文前期から晩期、六千年から二千年くらい前
縄文時代は、一万八千年くらい続いた。
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欧州や支那では、
だいたい一万年くらい前を旧石器時代、
一万年から三千年くらい前を新石器時代、
と呼んでいる。
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簡単にいうと、
旧石器時代は、自然石をそのまま道具に使った
新石器時代は、磨製石器、打製石器が出現する
日本の場合、縄文時代の前が石器時代となります。
そして旧石器が11万年前に出現し、磨製石器は、3万年前のもの(世界最古)が発掘されています。
つまり、日本は新石器時代を迎えたのが、欧州や支那よりも、2万年も早い。
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福井県若狭町の鳥浜貝塚遺跡は、いまから1万2千年~5千年前の遺跡です。
遺跡は丘陵の先端部にあり海抜ゼロメートル以下の低湿地で、縄文人たちが湖岸から日常生活のゴミを水中に捨てていた。
そのゴミの山が、まるごと真空パックされたような状態で出土した。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。
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ちなみに第4次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」の象徴とも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗(うるしぬ)り櫛(くし)」が発見されています。
九本歯の短い飾り櫛で、「実に美しい赤色漆」が塗られていた。
「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5千年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった」
と報告書に記録されている。
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発掘現場に居た者ならではの驚きと興奮が伝わってくる。
さらに、赤色漆を全面に塗った上から、黒色漆で模様を描いた木製の深鉢(ふかばち)や皿、
焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩(にさい)土器など、
当時の技術によって作られた品が数多く見つかりました。
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日本では漆(うるし)は、いまから1万2500年前には、すでに漆の木の栽培が行われていたことが確認されています。
漆(うるし)には、赤い漆と、黒い漆があります。
それまでの日本考古学会の公式見解は、「日本の縄文時代の漆(うるし)は、赤漆だけで、黒漆は支那から古墳時代頃に伝来した」でした。
ところが、鳥浜貝塚から、黒漆が出土してしまった。
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鳥浜貝塚からは、他にも編み物などがたくさん見つかっています。
このことから、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかになりました。
つまり縄文人は、「鹿の毛皮」をかぶってはいなかった。
色彩模様のある衣服を身に着けていた。
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それが、ずっと否定され続けてきたのは、日本には独自の文化は無く、すべて「支那・朝鮮由来にしたい」と考える人々が、学界を牛耳ってきたからでした。
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縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。
耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかもそれらの装身具は、よく見ると彫刻付きです。
耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。
腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。
展示品は歴史が付いていて、くたびれて見えるが、新らしく作れば、そのまま現代社会でも立派に通用する。
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また衣服も、布製で極彩色の美しい模様が描かれています。
このデザインを復元したスタッフは、縄文人のこの服装が「そのまま原宿あたりの町を歩いても、なんら違和感がない」と述べています。
おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しい。
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しかも、特定の女性だけが、着飾っていたわけではありません。
出土品の点数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、一部の人だけが装飾品を付けていたとは言い難いのです。
つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。
女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということを意味します。
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しかも、縄文時代の遺跡からは、まったく「武器」が出土しない。
全国に分布する縄文遺跡から、植物採取や狩猟のための道具としての斧や弓矢はたくさん出土するのですが、人を殺すための武器が出土しないのです。
なぜそのように言えるかというと、人を殺すための武器にしては、弓も小さく、矢尻も小さすぎるのです。
また石斧もありますが、石の部分が小さくて、柄が長い。
つまり、小動物を殺す道具としての武器は出土するのですが、対人用の大型の武器はまったく出土しない。
もちろん刀剣や槍の類もありません。
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女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。
おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。
男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。
女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。
そのような集落の生活が想像されます。
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全国に数万か所もある縄文遺跡からは、諸外国に見られるような、頭骨や肋骨に矢じりが突き刺さっている人骨は、いまだに発見されていない。
つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。
そういう時代だからこそ、女性たちがたくさんの装身具で身を飾ることができた。
女性たちが美しく着飾れるというのは、平和な世の中のある意味、象徴的なできごとといえるかもしれません。
なぜなら戦乱の世の中では、のんびりと凝った装身具を身にまとったり作ったりするだけの余裕がない。
女性の装身具は、敵から逃げるのには不都合です。
そういう平和な時代が縄文時代であり、その縄文時代が約1万7千年続いたということは、これはすごいことです。
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日本人は平和を愛する民族です。
戦いよりも和を好みます。
そうした日本人は、縄文時代に形成されたのだと言えるでしょう。
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弥生時代にはいると、服装も土器もシンプルなものになったのは、皆様よくご存知のとおりです。
槍(やり)や刀(かたな)などの武器や、鎧を着た人形なども出土しています。
つまり、弥生時代は、日本人が武器を持つようになった時代と言えるでしょう。
弥生時代の始まりについては、諸説ありますが、だいたい今から3千年ほど前、紀元前千年頃から弥生期にはいったとされています。
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弥生時代の朝鮮半島南半分は、倭国の一部でありました。
その北にあるいまの北朝鮮のあたりは、文化らしい文化を持たなかった濊族(わいぞく)が住む地域でした。
そのまた北は秦の始皇帝に統一される前の、戦乱に明け暮れる支那大陸があった。
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稲作は、支那から朝鮮半島に伝わり、そこから日本に伝来したとされています。
なるほど、揚子江流域にあった長江文明で稲作が行われていたことは確認されています。
ところが、その伝来の途中とされる、山東半島の一帯は稲作に適さない。
また朝鮮半島北部も、稲作に適していない。
つまり、稲作が、日本に伝来したとされる経路がたどれない。
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むしろ稲のDNAを調べると、日本から揚子江流域や朝鮮半島南部に稲作が伝えられた考えられるのです。
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それとおもしろいのは、唐古遺跡や板付遺跡の溝底から、明らかに刃物で付けられたと思われる痕跡が見つかったことです。
刃物が石器なら残っているのにそれが見つからない。
それで刃物は鉄器であった、それが錆びて消失したと考えると、紀元前10世紀には、鉄器が使われていたと推測できる。
1955年に、熊本県斎藤山遺跡から出土した鉄器は、紀元前5世紀のものとされた。
また、淡路島からは、1世紀頃の大規模な鍛冶工房跡が見つかっています。
つまり、鉄が6世紀になってから、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わったとする説は、否定されたわけです。
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製鉄は、砂鉄や鉄鉱石の産地で成されています。
そして、砂鉄や鉄鉱石から、鉄を作り出す時には、大量の強力な火力が必要だということです。
当時の火力は、木を燃やすことによって得られています。
そのためには大量の木の伐採が必要となります。
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鉄器の製造のために森林を伐採する。
これをやり過ぎると、森がなくなります。
木は、燃やすのは一瞬ですが、成長するには最短20年、一世代掛かる。
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いまから3500年前、トルコから中東一体を支配したヒッタイトが、鉄製の武器を使って世界を制したと言われています。
そのヒッタイトが征服した地域は、今ことごとく砂漠化しています。
彼らは、鉄器を作るために、森林を伐採し尽くしてしまったと考えられる。
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製鉄には、森の木々が失なわれることによる環境変化が付随する。
それを徐々に経験することで、その対策もしなければならないと気付く。
つまり環境を保つためには、製鉄と植林業が同時に成されなければならない。
これが独自文化と言うものなのです。
これは小規模ながら、今でも炭焼き場での、森林の伐採方法として残されている。
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古い時代の製鉄は、原料である砂鉄や鉄鉱石があること、森の木々の伐採と運搬が容易なことという二つの条件が備わっていなければなりません。
砂鉄や鉄鉱石や木材の産する場所は、山奥でしょうが、そこからの鉄の運搬は、重いので船を使ったはずです。
つまり河川の通じた谷合で製鉄がなされていた。
これは、容易に想像することができます。
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ところが、権力者が、武器として鉄器を求めた場合は、権力者は森林が失われ環境破壊が進むことには、一顧だにしないでしょう。
これが根の無い文化の欠点です。
その結果、やがて森林消失地域が砂漠化し、民族そのものが滅んでしまう。
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そうすると、いまから3千年前、つまり弥生初期に製鉄が行われていたとするなら、その技法そのものは、もっと古いころからあった。
もしかすると4千年くらい前から小規模な製鉄が行われていた可能性がある。
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日本人が、半島南部に住み鉄を作ったのが、紀元前2〜3世紀であった。
その朝鮮半島は、大陸と地続きであり、当時の支那は、戦乱が続いている。
そういう支那から、ときどき悪い連中が武器を持ってやってくる。
当然、倭人たちも身を護るために武器を手にするようになる。
同時に製鉄時の火力が、薄くて強い弥生式土器を可能にした。
つまり、これが弥生時代のはじまりです。
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人は武器を持つと、他人を蹂躙しようとする者が必ず現れるものです。
そうなると、女性たちも身の安全が確保できにくくなります。
結果、装身具をあまり身に付けない、男女とも似たような簡素な服を着るようになる。
弥生時代と縄文時代の女性たちの服装の変化も、こうして説明することが可能です。
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要するに、縄文から弥生への変化は、大陸との交流によって、人々が対人用の武器を携帯するようになった。
そして製鉄技術の進歩にともなって炉の火力が変わり、土器がより薄い陶器へと進化するようになったことがあげられると思います。
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稲作の話に戻します。
弥生時代に稲作が伝来したという説には、大事な事が見落とされています。
2005年2月、彦崎貝塚の縄文時代前期(約6千年前)の地層から、稲の植物オパールが大量に見つかっている。
その頃日本列島は、熱帯であったという点です。
稲は、もともと熱帯性の植物です。
熱帯には雨季と乾季がありますが、その雨季と乾季を人工的に演出したのが、田植えのシーズンに田に水を入れる灌漑農法です。
日本がもともと熱帯であったなら、稲は低地に自生します。
つまり、稲は、支那朝鮮から渡来したのではなくて、日本に自生していた。
その稲は、たわわな穂を稔らせますから、あたりまえのことながら、人々はそれを食用にしたことでしょう。
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ところがやがて日本列島は、熱帯から、温帯へと変化した。
去年まで自生し、稔っていた稲も、雨季がなくなれば、自生しなくなります。
そこで、どうやったら稲を生育することができるか。
雨が降らず、低地に水がたまらないなら、では、川から水を引いてしまえ、ということから灌漑農法が始まったと、これまた常識的に考えることができます。
つまり、灌漑農法は、かつて熱帯であり、いまは温帯化した地域でしか誕生することはあり得ない。
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熱帯の米を、温帯に持ってきたとする説には、無理がある。
現実問題として、バナナは熱帯性植物で、温帯では生育しません。
温室をつくれば、バナナを生育することは可能ですが、それが広がることはありません。
手間暇がかかりすぎるからです。
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かつて日本列島が熱帯であった時代に、稲が主要穀物となっていた。
それが、温帯化して以後も、なんとか工夫してその食生活を維持した、と考えるほうが自然でしょう。
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小麦なら温帯で生育するし、栽培も容易です。
もし、日本列島が、ずっと温帯のままであったのなら、むしろ主要穀類は小麦やトウモロコシ、粟、ヒエなどになったと考えるべきでしょう。
実際世界の多くの温帯地域の国々では、主食は小麦かトウモロコシです。
日本人は、何故温帯で、米を主食にしているのかを、不思議に思い研究すべきだった。
そうしていれば、稲作が、支那・朝鮮から伝来したなどと言う人は、いなかったはずなのです。
投稿時刻 07:46 国内 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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