2018年10月5日金曜日

「宮崎正弘ブログ書評奥山篤信」より抜粋編集

2018年10月 5日 (金)
人類に与えた被害は、共産主義は高々100年だが、キリスト教は2000年である
ーー以下「宮崎正弘ブログ書評奥山篤信」より抜粋編集
渡辺京二『バテレンンの世紀』(新潮社)
「渡辺史学」の到達点である!
かつて渡辺氏の著書『逝きし世の面影』について、西部邁先生は次のように評した。
ーー
「(渡邉氏は)幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に渉猟し」た。
「(そして『逝きし世の面影』にて)当時の西洋人が見た日本の姿を浮かび上がらせた」
「多くのヨーロッパ人たちが、この美しき真珠のような国が壊されようとしていると書き残している」と。
ーー
評者(奥山)は渡辺氏は一次資料から緻密な分析をする歴史家と見ている。
ーー
共産主義とキリスト教はお互い犬猿だが、根っこは同じだ。
美しい理想郷と殺戮と拷問の現実と思い上がり。
これらは、共産主義社会と神の国に共通している。
ーー
しかし人類に与えた被害は、共産主義は高々100年だが、キリスト教は2000年である。
そんな意味でもこの渡辺氏の緻密な調査と分析は実に興味深い。
ーー
1582年に四名の少年を中心とした使節団がローマへ派遣された。
九州のキリシタン大名、大友宗麟・ 大村純忠・有馬晴信の名代としてで、イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案したものだった。
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
ーー
第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということ。
ーー
使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれ た。
派遣当時の年齢は十三~十四歳であった。
その四人は
・伊東マンショ(主席正使)大友宗麟の名代。
宗麟の血縁、日向国主伊東義祐の孫、後年、司祭に叙階される。
一六一二年長崎で死去。 
・千々石ミゲル(正使)大村純忠の名代。
純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。
後に棄教。 
・中浦ジュリアン(副使)後年、司祭に叙階。
・原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。
ーー
渡辺氏は『天正遣欧使節記』にあるローマへの少年派遣団の一員であった千々石ミゲルの棄教について語っている。
しかしなぜ氏は、彼らの「見聞録」の中で書かれている下記を敢えて書かなかったのか。
ーー
「我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を 身近で見たときには、こ んな安い値で小家畜か駄獣(牛や馬)の様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい 怒りに燃え立たざるを得なかった」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へ、あんなに安い値で掠って行かれ 売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか」
ーー
まさに性奴隷の生娘を含む日本人奴隷たちの記述がないのだ。
ーー
宣教師のうわべの綺麗事の目的とは裏腹に、まさにあくどい主な目的である奴隷貿易への記載が見当たらないのだ。
ちなみに1607年に南米ペルーのリマでおこなわれた人口調査によれば、当時の人口 25454人のうち、日本人の奴隷として男9名と女11名がいたことが記載されている。
この事実こそが1587年豊臣秀吉をして宣教師追放令を発布させたのだ。
が、その理由は、ポルトガル人がキリスト教の布教の一方で南蛮貿易において多数の日本人を奴隷として叩き買い、船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知ったからだ。
ーー
秀吉はまさに宣教師らの口先の偽善と欺瞞に怒りを爆発させたのだ。
つまり宣教師追放令は日本の行政府の長の施策として賞賛すべきものであった(拙著「キリスト教を世に問う」)。
ーー
私は、キリスト教弾圧の功績者は秀吉だと考えている。
が、渡辺氏が描く秀吉は何か思いつきとか助言でコロコロ変わるいわばピエロ的存在で矮小化されている。
そして弾圧を実質的に実行したのは徳川家康以降の徳川政権だったとしているのだ。
ーー
家康は秀吉の宣教師(バテレン)追放令を踏襲して、治世の当初から日本を神仏国家として、キリスト教を拒否する姿勢であった。
が、彼の海外情勢に対する的確な認識があり、海外に向かう知識の窓口であったからこれを利用せねば損だと思っていた(これは織田信長と同様)。
それゆえ、西洋諸国が交易と布教を切り離して、宣教を抑制してくれるなら、ある程度のキリスト教の存在を黙認する用意はあった。
ーー
しかしそんな黙認につけあがったキリスト教は日本において最盛期を迎え信者が37万人まで増えたのだった。
その交易と布教を分離しないスペイン・ポルトガルへの苛立ちが募り、家康をしてついに全面禁教とさせたのだった。
まさに「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城中の政号(政体、国柄)を改めて己が有となさんと欲す」である。
ーー
実際、家康は日本の軍事力に自信をもっていた。
それで西洋人らの現実の武力侵略は恐れていなかった。
彼が恐れていたのはキリスト教の文化的侵略だったのだ。
ーー
つまり秀吉の奴隷貿易に対する「人道的怒り」よりも家康の「文化的侵略への危機感」こそが、まさに合理的な認識だった。
芥川龍之介は「神神の微笑」の中で、「キリスト教は日本の霊の力には絶対に勝てない、つまり日本の風土になじまない」と書いている。
さらに棄教者フェレイラは、『顕疑録』を書いてキリスト教を攻撃している。
フェレイラは、最終的無神論者となった。
ーー
つまりキリスト教信者だったものもキリスト教を批判しているのだ。
むしろ渡辺氏はキリスト教への尊敬の念をお持ちのようで、だからこそ奴隷貿易やローマ見聞録などをあえて書かなかったのではないのか。
氏は1948年日本共産党に入党し、1956年のハンガリー動乱で共産主義に幻滅し脱党した青年時代がある。
それで私は、渡辺氏が共産主義者からの転向隠れキリシタンではないかと思ったほどだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿